top of page
検索

「できない」と決める前に、前向きに挑戦する療育

人はいつから、「自分には無理だ」と先に線を引くようになるのだろう。赤ちゃんは転ぶたびに、自分の才能を疑ったりしない。ただ立とうとして、倒れて、また手をついて立ち上がる。その姿の中に、私たち大人がどこかで置いてきてしまった、挑戦の原点がある。


赤ちゃんを思い出してほしい。

立てると思って立つ。

立てるまで立つ。

歩けるまで歩く。

赤ちゃんが立ち上がろうとするとき、そこに一切の疑念はないように見える。自分には無理かもしれないとか、何回失敗したから向いていないとか、周りより遅いから恥ずかしいとか、そんなことを考えていない。

何回も何回も転ぶ。

その中で、ほんの少し立てる瞬間がある。一歩踏み出して、また崩れる。でもまた立つ。二歩前に出て倒れる。それでも続ける。

なぜなら、赤ちゃんは「自分は立てる」「自分は歩ける」と、まるで当たり前のように信じているからだ。

もしその赤ちゃんが、「自分は立てない」「自分にはできない」と思っていたら、きっと立てない。少なくとも、立てるまで立ち続けることはできない。

これは、大人にもそのまま当てはまるのではないかと思う。


私たちはいつの間にか、自分で「ここまで」というラインを決めてしまう。これくらいやったから十分だ。これ以上は自分には無理だ。才能がない。環境が悪い。タイミングが悪い。

もちろん、そう言いたくなる瞬間はある。傷つきたくないし、期待して失敗するのは怖い。だから「できない」と決めることは、ある意味で自分を守るための方法でもある。

でも、そのラインは本当に現実なのか。

それとも、自分を守るための言い訳なのか。

僕は、後者であることが多いと思っている。

自分でできないラインを決めてしまうと、どんな言葉を並べても、それは自分を守る言い訳になってしまう。そして正直に言えば、それは少しダサい。


僕は野球部だった。

部員が150名いるような環境で、最初は三軍からのスタートだった。もちろん、レギュラーなんて無理だと思っていた。あまりにも遠い場所に見えたし、自分がそこに立つ姿を想像するのも難しかった。

そのとき、二軍の監督が言った言葉がある。

「努力すれば成功するとは限らない。でも、努力しなかった奴に成功したやつはいない。」

その言葉を、僕は愚直に信じた。

雨の日も、どんな日も、素振りを千本すると決めてやった。できるかどうかではなく、やると決めた。気分が乗るかどうかではなく、やると決めた。

すると最後には、三番のレギュラーを取ることができた。

もちろん、努力したから必ず結果が出るとは言えない。現実はそんなに単純ではない。才能もあるし、環境もあるし、タイミングもある。

でも、少なくとも僕が素振りを千本やっている間、横でずっと喋っている人たちもいた。「どうせ俺たちなんか」と言いながら、自分たちで自分たちの可能性に蓋をしている人たちもいた。

その違いは、才能の前にある。

姿勢の違いだと思う。

努力の量を、私たちは自分の物差しだけで測ってしまいがちだ。

「これだけやったんだから、もう十分だ」

「これだけ頑張ってできないなら、向いていない」

「自分なりにはやった」

でも、少し遠くを見てみると、もっとやっている人がいる。もっと転んでいる人がいる。もっとできなくても、まだ「どうしたらできるか」と考え続けている人がいる。

自分の物差しをどれだけ上げられるか。

これは、とても大切なことだと思っている。自分に厳しくしろという話ではない。根性論だけで何とかしろという話でもない。

ただ、自分で早々に終わりを決めないということだ。


赤ちゃんのように、倒れたことを「終わり」と解釈しないこと。失敗したことを「できない証拠」にしないこと。まだ立てていないだけで、立てないわけではないと知ること。

この感覚は、僕が関わっている療育の現場でもすごく大切にしている。

子どもたちに対して、僕たち指導員は「できるよ」「やってみようよ」と声をかける。実際にやってみる。失敗する。そこで終わりにしない。

「大丈夫。次はこうやったらできるかもね」

「どうやったらできるか、一緒に考えよう」

その繰り返しの中で、子どもたちは少しずつ変わっていく。できなかったことが、少しできるようになる。怖かったことに、少し手を伸ばせるようになる。

でも、そのときに指導員側が挑戦する精神を持っていなかったらどうだろう。

子どもたちには「やってみよう」と言いながら、自分たちは「これは苦手だから」「やったことがないから」「自分には向いていないから」と線を引いてしまう。それでは、本当の意味で支援にはならないと思っている。


だから僕たちは、押し付けの療育にならないように、日々トレーニングしている。

「できるようにさせる」のではなく、「一緒に挑戦する」。

「失敗しないように導く」のではなく、「失敗しても大丈夫だと体で伝える」。

そのためには、指導員自身がチャレンジする人でなければならない。

新しく入ったスタッフの中にも、「ダンスをやったことがないんです」と言う人がいる。もちろん、最初からできるわけがない。やっていないのだから、できないのは当たり前だ。

でも、できないことは問題ではない。

問題は、「やっていないからできない」を、「自分にはできない」に変えてしまうことだ。

やればできる。少なくとも、やる前よりは確実に変わる。あとは、やる量の問題であり、続け方の問題であり、自分の物差しをどこまで上げられるかの問題だ。

できるかどうかを先に決めるのではなく、できるようになるまでどうするかを考える。

それが、赤ちゃんが無意識にやっていることだと思う。

赤ちゃんは、自分の転び方を恥じない。昨日より少し立てたことを、誰かと比べない。うまくいかなかった理由を探して、自分を納得させたりしない。

ただ、また立つ。

僕たち大人に必要なのは、もしかしたら新しい知識や特別な才能ではなく、その単純な強さなのかもしれない。

立てると思って立つ。

立てるまで立つ。

歩けるまで歩く。


自分には無理だと決めた瞬間、そこで挑戦は終わってしまう。でも、まだ終わりにしないと決めた瞬間、もう一度前に進む余白が生まれる。

失敗してもいい。倒れてもいい。かっこ悪くてもいい。

大切なのは、倒れた自分を「できない人間」だと決めつけないことだ。

赤ちゃんのように挑戦し続ける。疑わず、比べず、何度でも立ち上がる。その先にしか、自分でも驚くような成長はない。

僕も毎日、それを意識している。

自分の物差しを少しずつ上げること。できない理由より、できる方法を探すこと。そして、どれだけ転んでも、まだ立てると信じること。

人は最初から、立てたわけではない。

でも、立てるまで立ったから、歩けるようになった。


 
 
 

最新記事

すべて表示
未就学期の療育は、感覚を育てる宝庫

子どもが落ち着きなく動き回っているとき、私たちはつい「じっとして」と言いたくなります。でも、その動きの奥には、本人にもまだうまく扱えない体の感覚が隠れていることがあります。ふわふわ歩いていた子が、ある日ペタッと足をついて歩き始める。その変化は、根性や注意ではなく、体が少しずつ「自分の使い方」を覚えていく過程なのだと思います。 児童発達支援と放課後等デイサービスの現場にいると、未就学のお子様と関わる

 
 
 
療育から学ぶ「できない」の乗り越え方

私たちはいつから、挑戦する前に「できない」と線を引くようになったのでしょうか。かつて誰もが、自分に限界があるなんて考えもしなかったはずです。転んでも、転んでも、疑いなく立ち上がろうとしたあの頃のように。自分の可能性を信じる力は、言い訳という名の鎧を脱ぎ捨てたとき、静かに、そして力強くよみがえります。すべては、ひとりの赤ん坊が教えてくれました。 赤ん坊が初めて立ち上がろうとする姿を、思い出してみてく

 
 
 

コメント


bottom of page